約45%が腰痛に 4人に1人は産後まで
ある平日の午後、名古屋市内の産婦人科「キャッスルベルクリニック」の静かな待合室に森野さんの姿があった。妊娠中の女性の隣に腰掛け、会話をしながら質問を重ねていく。
「生活の中で気をつけていることはありますか?」「痛みが出た時はどうしてますか?」
産婦人科を訪れ、妊婦に声を掛け、質問したり、体の動きを計測したり。調査対象者も含め、森野さんがこうして関わってきた妊婦は1000人を優に超える。
森野さんによれば、妊娠中に腰痛を経験する女性は約45%にも上る。このうち4人に1人は産後も痛みが続き、仕事への復帰を遅らせる一因にもなっている。
腰痛の原因は大きく二つある。
一つは、胎児の成長による体重の増加。厚生労働省の指針によれば、適切な体重増加量は、やせ型の人では十数キロにもなる。増えた体重を支えるために、日常生活の動作においても腰に過度な負担がかかる。
もう一つは、妊娠によるホルモンの変化で骨盤周辺の関節が緩むこと。これにより大きな負担がかかり、腰痛を引き起こす。
この日話を聞いた2人の女性はどちらも腰痛を経験していた。一人は、現在妊娠17週目。7週目ごろに腰痛が出始め、歩いたり、物を拾おうとかがんだりすると、尾骨辺りが痛んだ。整体に通った結果、いまは痛みは引いたが、もう一人の女性は「自分でなんとかしています」と言う。森野さんによれば、痛みがあっても、我慢することを選ぶ女性は少なくない。「大したことではない」と放置した結果、重症化するケースもあるという。
お母さんの健康は二の次?
「妊産婦の健康問題は、これまであまり研究されてきませんでした」と森野さんが言う。
「妊婦の側から痛みの訴えはありました。ただ、妊娠・出産においては元気な赤ちゃんが生まれることが第一で、お母さんの健康は二の次にされがち。『出産して、しばらくしたら治るから我慢して』と言われ、見過ごされていました」
腰痛に限った話ではない。つわりや便秘、尿漏れなど、母体や胎児の命に直接は関わらない症状は“マイナートラブル”とも呼ばれ、「誰もが経験することだから」「我慢するものだから」と研究が進んでこなかった。
「命に直接は関わらない」という意味ではこれらの症状は“マイナー”かもしれない。けれども、症状の形や重さは人それぞれ。悩んでいる女性は決して少なくない。
「調査の中で、こんな方にも会いました。腰が痛くて動きたくないけど、動かないわけにはいかない。無理をして、頑張って動いてまた痛めて、医者に聞いても『我慢して』と言われ、どうしようもない、と。こうした声をなくすために私は研究を続けています」
妊娠中は薬や湿布などが制限され、積極的な治療が困難なことや、女性の研究者が少なかったことも研究が遅れた原因になった。妊娠中の女性の健康問題は、まだ広がり始めたばかりの研究分野なのだという。
工学的アプローチで医療に科学的根拠を
森野さんの経歴は少し変わっている。理学療法士の資格も持ち、修士号は医学系の人間健康科学で修めたが、博士課程では工学の道に進んだ。その理由を、森野さんはこう語る。
「腰痛は体の使い方で改善できます。体幹にしっかりと力を入れて、体勢を整えてから動くことで回避できる。では、どんな動作が腰痛の原因となるのか、どう動けば改善できるのか、客観的かつ定量的に測るためには工学の知識が必要でした」
工学を学んだ森野さんは、妊婦に負担をかけにくい、小型センサによる姿勢の測定方法を確立。数百人の妊婦を調査をしたことで分かったことがいくつもあった。
胎児の成長で体重が増えることで、「いすに座る・立ち上がる」というような日常動作が大きくなり、腰痛を引き起こしていることを明らかにした。負荷の少ない動き方を覚えたり、筋肉を鍛えることで腰痛を改善できる可能性があるという。
森野さんがこの研究テーマを選んだきっかけは、修士課程で指導を受けた京都大学医学部教授の青山朋樹さんの勧めだった。「妊婦の健康問題は解決できていない部分が多く、森野さんならこの分野を新しい視点で切り開いてくれると期待しました」と青山さんは話す。
「妊娠期の健康問題は人々の関心が高い一方、医学はちゃんとした答えを出してこなかった。その結果、根拠のない情報が雑誌やネットで広がってしまっている。結果を数値化できる森野さんの工学的なアプローチは、さまざまな問題解決につながると思います」
森野さんは博士課程は別の大学に進んだが、今でも客員研究員として研究室に所属。研究や学生の指導に関わっている。
「調査結果は臨床に生かせないと意味がない」
森野さんの研究のこだわりは“臨床”にある。「困っている人を調査する以上、結果を臨床に生かせないと意味がない」と考えているからだ。現場に出て、話を聞いて、新たな発見を現場に返す。そのため、研究に協力する医療機関は多く、医師や助産師らからの信頼も厚い。
「腰痛は、とても頻繁に訴えがある症状です」と話すのは、冒頭のキャッスルベルクリニックの看護師長で助産師の畑中洋子さん。
「これまでは自分たちの経験に基づいたケアを提供していましたが、森野さんは理学療法士の視点で、(工学の)エビデンスに基づいた証明をしてくれる。必要な支援・ケアを考える上で、とても重要な研究だと思います」
「マイナートラブルとは呼ばれるが、腰痛は重要な問題」と話すのは、同じく助産師で同クリニックを運営する医療法人葵鐘会の看護部長、梅崎文子さん。
「腰痛がひどいとお母さんは動きたくなくなってしまいます。生活の質が下がるし、産後も続けば、生まれてきた子どものネグレクトにもつながりかねません」
妊産婦のさまざまな問題について、森野さんは科学的に考え、分かりやすく説明をしてくれるという。梅崎さんはこう言う。
「森野さんが入ってきてくれたことで、こういうことは理学療法士の先生に相談すればいいんだ、と分かるようになった。今では妊婦さんも含め、森野さんと私たちは一つのチームです」
研究の種も臨床に
森野さんが新たに取り組んでいる研究が、分娩時の母体の動きの解明だ。
子どもが母体から外に出される際、母体の動きが補助的な役割を果たしている、というのが森野さんの見立て。分娩の際、母体の骨盤周辺の筋肉が緩まずに収縮してしまうなどのケースがあるといい、分娩に耐えられる体力や生み出す動きを事前に身に付けておけば、出産の負担が軽減できるかもしれないという。現在、JKAの支援を受けて研究に取り組み始めたところだ。
実は、このテーマに気づいたのは、梅崎さんや畑中さんら助産師や医師との会話がきっかけだった。研究結果を現場に返す中で、ふとした雑談の中から研究の種が見つかっていくという。
森野さんは言う。
「今は臨床と研究の距離が離れているので、少しでもその距離を縮めたい。自分の発見が誰かのために役立って、直接は言われなくても、どこかでありがとうの声が上がればいい。この目線は曲げないでやっていきたいです」
取材に訪れたこの日も、会話の中から新たなテーマが生まれたようだった。「また研究の種ができた」と、森野さんも二人の助産師もうれしそうに顔を見合わせた。妊娠中の“マイナートラブル”は我慢するもの——。そんな常識が変わり始めている。