“心が通う”と脳波のリズムが同期する
ある平日の午後、筑波大学の研究室の机に向かい合って座るのは、今日が初対面だという20代の男性2人。頭部は「脳波キャップ」と呼ばれる白い帽子で覆われ、それぞれのキャップからは32本の赤い導線が手元の機器へ伸びている。
ややぎこちない自己紹介から、互いの大学生時代の話へ。二人とも情報科学系の学部出身と分かり、互いの研究についての話題が盛り上がったところで、川崎さんがモニタを指差した。
「ほら、この部分、脳活動が同期しているのが分かります」
モニタに映し出されたのは、いくつもの黒い波形。二人の脳の電気信号をリアルタイムで捉えたものだ。画面の上半分が1人目、下半分が2人目の分。確かに、川崎さんが指し示したあたりから、波の大きさは違うものの、二人の脳波が似たような周期で上下しているのが分かる。
スムーズなコミュニケーションが行われている時、二人の脳波のリズムはそろう。川崎さんらの研究で解明されたことだという。
「早口な人と話していると、自分も早口になってしまう時がありますよね」と川崎さん。
「コミュニケーションのリズムは同期します。このリズムが一致するとき、人は心地よさを覚えたり、相手のことを信頼することが多いようです」
そもそも、“脳波”とは何だろうか——。
川崎さんによれば、脳は「ニューロン」と呼ばれる数百億の神経細胞で構成されており、人が何かを見たり、体を動かしたり、考えたりするときには、それぞれの機能に対応したエリアの脳細胞が活発に活動する。この時に発生する電気信号の強弱や周期を記録したものが、モニタに表示されていた“脳波”だ。
川崎さんが言う。
「私は、人と人とのコミュニケーション、人の心理状態のメカニズムを、脳から、特に、脳波の“リズム”から解き明かす研究を行ってきました」
発達障がいの特徴も脳波に
研究で明らかになった成果はほかにもある。
その一つが、発達障がいのある人の脳波の特徴を発見したこと。「他者とのコミュニケーションが苦手な人がいますよね。そういった方の脳の特徴が見つかりました」と川崎さんがある実験の話をしてくれた。
発達障がいのある人の脳活動について、大学病院と共同研究を行ったところ、実験協力者たちは、他者のリズムと合わせることができないわけではなかった。一方で、ある共通した特徴が見つかったという。
「シータ波」と呼ばれる脳波が、前頭部で大きく増える——という特徴だ。
「この脳波は、脳に大きな負荷がかかっていることを意味しています。つまり、発達障がいのある人は、他者に『合わせる気がない』『できない』というよりも、『合わせようとすることが大きな負担になっており、その分、コミュニケーションが難しいと感じている』ということが分かりました」
この結果を当事者に伝えると、「まさに、そういう感じです」と納得する人が多かったという。
「どうすれば脳への負担を減らせるのか、という観点が支援のポイントになる。臨床現場での支援に発展できたらいいなと思っています」
“心の状態”をアプリで可視化
こうした認知脳科学の知見を生かして、川崎さんが世界に先駆け、JKAの支援を受けて取り組むのが、心の状態を捉えるアプリの開発だ。完成すれば、その日の自分の心の状態を、手軽に計測することができるようになるという。
しかし、そもそも“心”とは何なのだろうか——。
川崎さんに尋ねると、「脳科学の立場から、私が考えると」と前置きをした上で、こんな答えが返ってきた。
「何かを思考したり、知覚したりする時に脳は活動します。これらに加え、人は、起こったできごとに対して、うれしい・悲しいなどの意味づけをします。この意味づけを行う脳活動が“心”だと、人は捉えているのではないでしょうか」
「例えば」と、川崎さんがスポーツと心の関係を例に挙げる。
同じ運動をしていても、「友達が応援してくれるから頑張ろう」と力を発揮する時があれば、嫌なことがあって、いつも通りのプレーができない時もある——。
「同じ人でも、同じ行動をする時でも、その時の“心の状態”によってできることは変わります。心の状態が悪いと分かっていれば、『無理はしないでおこう』と考えられる。反対に、状態が良ければ、『新しいことに挑戦してみよう』と積極的な行動ができるかもしれません」
日常生活の中でも、感情のままに発言や行動をして、失敗してしまうのはよくあることだ。その日の心の状態を客観的に把握することで、人間関係のトラブルを回避したり、仕事のパフォーマンスを整えたりできるようになるかもしれない。
自分の心を知ることは寛容な社会につながる、とも川崎さんは考えている。
「どんな人でも心の状態は一定ではありません。うれしかったり、悲しかったり。調子がいいときがあれば、悪いときもある。自分の心の状態に波があると理解できると、他者も同じだと分かるはずです。今日は調子が悪かったのかなとか、うまくコミュニケーションが取れなかったけれど、明日もう一度関わってみよう、と思える。そう考えると、コミュニケーションが楽になりませんか?」
アプリの開発はまだ始まったばかり。当然、乗り越えるべき壁も多い。
脳から発生する微弱な電気信号を拾うには、周囲のノイズによる影響を除去することが必要だ。脳波を正確に測れるようにするのが第一段階。第二段階では、さまざまな脳波の中から意味のある脳活動を探し出し、第三段階で、日々の心の変動を捉えることができれば、アプリケーション化にたどり着ける見込みだ。
現在は、第一段階をクリアしたところ。脳波は、眼球の動きなどでも大きく左右されてしまうため、“心の状態”を示す脳波を拾うためには、そうしたノイズをコンピュータによる計算によって除去する必要があったという。
「数百億ある脳細胞の一つ一つの変化を見るわけにはいきません。脳科学はビックデータ、大量にある情報から、確かなものを探していくことが重要です」
「人の心は宇宙。研究者でも分からないことだらけ」
川崎さんは、大学生の頃から、こうした脳の複雑で不思議な仕組みの解明に関心を抱いてきた。同じできごとを前にしても、一人一人の感じ方が違うことに気づいたのが、研究にのめり込んだきっかけだった。「調べれば調べるほど、脳は分からないことだらけでした」と振り返る。
中高生向けに脳科学の話をすると、「相手の考えていることが分かる?」という質問をよく受ける。川崎さんは「自分の考えていることは分かる?」と問い返すという。
「相手の心を知りたがる人が多いですが、本当は、自分の心もちゃんとは分かっていないはず。まずは自分の心の中がどうなっているのかを知りたい、というのが私の研究です」
川崎さんは言う。
「人の心の中は宇宙です。テレビやインターネットでは脳科学をめぐるいろいろな情報が飛び交っていますが、人間は、まだ自分たちの脳の0.000001%しか分かっていません。研究者でも分からないことだらけ。小さな石を一つ一つ積み上げている段階です。この面白さを研究者の間だけのものにせず、多くの人に知ってもらいたいと思っています」
「いつかは科学が“心”を捉えることはできると思いますか」——。最後にそう尋ねると、迷いのない返事が返ってきた。自分の心が理解できて、他者のことも理解できる寛容な社会は訪れる。川崎さんは、そう信じている。
※撮影時のみマスクを外すご協力を得て撮影を実施しています。