「目標は勝ち続けること」
大会2日目。会場となったグリーンアリーナ神戸は、2年ぶりの観客の声援に湧いていた。
決勝のコートには、白いユニフォームの「Wing」(関東ブロック)と大会7連覇を目指す「カクテル」(関西ブロック)の選手たち。両チームとも、日本代表選手が顔を揃える強豪だ。
コート中央の主審がティップ・オフのボールを投げ上げ、試合開始。「日本一」を決める決勝戦の40分が始まった。
初日から華麗なプレーで会場を魅了していたのが、カクテルのパワーフォワード、北田千尋選手。東京パラリンピック日本代表で、現在日本代表のキャプテンを務めるトッププレーヤーだ。抜群のチェアスキル、ゴール前での高さ、そして、決定力のあるシュート。ボールがゴールリングをくぐるたび、大きな拍手で会場が湧く。
「この大会が日々の練習の目標」と北田さんは語っている。
末梢神経の障がいで19歳から車いすに乗った。子どものころから好きだったバスケ。「選手は諦めるしかない。コーチになろう」と進んだ大学時代、インターンシップ先に選んだ障がい者スポーツセンターで車いすバスケと出会った。「もう一度、選手になれる」と始めた競技だ。
「ものすごく悔しくて、コーチでやってやるって思ってた矢先に、『車いすという道具を使えばもう一度選手になれる』と言ってもらって。もう、とことんやってやろう、と。カクテルの目標は、この皇后杯で勝ち続けること。そこに向かうと、チームの士気がピリッと上がります」
東京パラリンピックを追い風に
「この大会は本当に貴重です」と北田さんは強調する。
女子車いすバスケの競技人口は65人。男子の510人と比べてずっと少ない(2022年4月1日現在)。チーム数が少なく、女子同士での試合が難しいため、体格差のある男子の試合に混じることもよくある。今大会も参加チーム数は2年前より2チーム減っている。パラスポーツの選択肢の広がりや新型コロナウイルスの影響などを背景に、地方都市では存続が難しいクラブも出てきているという。
「そもそも、女性がスポーツに参加する機会が男性よりも少なかった。パラスポーツではさらに顕著です」と指摘するのが橘香織さん。女子車いすバスケ日本代表の元ヘッドコーチで、大会を運営するJWBFの常務理事。日本の女子車いすバスケ界を牽引してきた一人だ。
ただ、追い風もある。東京パラリンピックでの選手たちの活躍だ。
JWBF会長の玉川敏彦さんは「『車いすバスケ』という競技に世の中の注目が集まってきています。選手を追いかけるファンがいるくらい」と言う。
競輪とオートレースの補助事業が開催を支援しているこの大会は、女子選手の育成や競技力強化を主な目的として開催されている。女子の全国大会は、唯一。継続的な開催が日本代表の活躍にもつながった、と玉川さんは振り返る。
「選手にとっては、毎年開催される皇后杯が刺激やモチベーションになっている。東京パラリンピックで6位入賞できたのも、30年以上やってきた成果だと思います」
神戸のまちに支えられて
大会は長年神戸で開かれてきた。きっかけは、1988年に神戸ZOOというチームが女子だけの大会を初めて開催したこと。翌年、アジア・太平洋地域の障がい者スポーツの総合競技大会「フェスピック」(現在のアジアパラ競技大会)が神戸で開かれた流れで、1990年に女子日本選手権の第1回が開催された。
阪神淡路大震災の影響で、1995年から3年間は他都市で開催した。しかし、選手たちの「もう一度、神戸で」という声が広がり、以降は神戸で開かれている。地域に根差した長年の活動が高く評価され、2018年には障がい者スポーツとして初めての皇后杯が他競技の大会とともに下賜された。
ボランティアの統括を行う神戸市社会福祉協議会の大久保正樹さんによると、毎年この大会を楽しみにしている地域のボランティアも少なくないという。
「障がい者スポーツの指導員や地域の大学生などが例年40名ほど関わっていて、選手の移動などをサポートしています。選手との絆が年々深まっていますね」
神戸市バスケットボール協会の理事長で、神戸高専(神戸市立工業高等専門学校)教授の春名桂さんは車いすバスケというスポーツに可能性を感じている。海外研修で訪れたスペインで、障がいの有無を超えて開かれる理想のバスケットボール大会を見たことがあるという。
「健常者のバスケの後に、車いすバスケの試合がある。そしてまた健常者の試合、と続いていく。それが、ごく自然に大会のなかで混ざっていたんです。なんて素敵な世界なんや、と。いつか、そんな大会が開けたら理想ですね」
さまざまな形で選手を支える人たちも
決勝の前半は、カクテルが切り返しの速いディフェンスでWingの攻撃を抑えてリードしていく。
コート脇には、手にしたファイルに何かを書き込む人たちの姿。「クラシファイア」と呼ばれる、選手の持ち点のクラス分けを行うスタッフだ。
車いすバスケのルールは、一般的なバスケットボールとほぼ同じ。選手は5対5に分かれ、10分1クオーターを4回戦う。コートの広さも、ゴールの高さも同じ。
大きな違いが、選手に「持ち点」があることだ。障がいの重い順に1.0〜4.5点まで0.5点ごとにクラスが分けられ、コートに立つ選手の持ち点は合計で14.0点以内にする必要がある。持ち点の低い“ローポインター”と、持ち点の高い“ハイポインター”の組み合わせが、チーム戦略の鍵を握る。
車いすの漕ぎ方や筋力の可動域などを観察し、クラス分けが適切かどうかを判定するのがクラシファイアの役割だ。その一人、安田景子さんは、クラス分けの国際ライセンスを持つ数少ない日本人女性。
「車いすバスケはさまざまな障がいの度合いの人の組み合わせで『一番』を目指すのが面白い」と安田さんは言う。
「クラス分けによって、できることと、できないことが分かるから、できることは頑張る、できないことはできる人がカバーする、と考えられる。それぞれが持てる力を最大限発揮することを自然と考えていけるスポーツです」
審判員の免田佳子さんも大会を支える一人。5月にタイで開催された世界選手権の予選を兼ねる大会でも決勝の審判を務めたエキスパートだ。国際ライセンスを持つのは日本人女性では2人目。国際大会と同じ環境で選手が戦えるよう支えている。
「世界で日本が勝つためにも、正しいルールを伝えていくのが審判の任務。審判のレベルと選手の強さは比例する」と免田さんは話す。
誰もが参加できるスポーツへ
2018年、競技を普及するため、大きなルールの改定があった。健常者も主な国内の公式大会に参加できるようになったのだ。現在、女子の健常者の選手登録者数は44人(2022年4月1日現在)。年々増えている。
パッション(四国ブロック)に所属する渡瑞希選手もその一人だ。
競技歴は5年、パッションは加入2年目。高身長を生かした、ゴール前でのプレーを得意とする。渡さんは障がいの有無にかかわらず、誰もが同じコートでプレーできるのが車いすバスケの魅力だと語る。
「障がいの重い方や身長が低い方はリングからの距離が遠いし、漕ぐ力も人一倍必要です。それでも私より速くて当たり負けすることもある。一言で言って、すごい。そんなふうにプレーできるようになりたいって憧れますね」
自分が生きたい人生を生きる
決勝の後半。カクテルのガード柳本あまね選手がパスワークでゲームをつくりながら、3ポイントシュートも鮮やかに決める。
得点力が高い北田選手や網本麻里選手らも攻勢をしかけ、点差を一気に広げていった。Wingもエースの椎名香菜子選手を中心に巻き返しを図ったが、固い守りを破れず58-37でカクテルが快勝。史上初の7連覇を成し遂げた。
大会MVPに輝いた柳本選手は、持ち点2.5の“ミドルポインター”。「目標は10連覇。世界一の2.5プレーヤーを目指します」と力強く言う。
Wingのキャプテン原田恵選手は2カ月前に練習を再開できたばかり。「今年はいろんな事情で参加できなかった選手がいた。必ず勝って報告すると約束したのに……。来年こそ優勝します」と悔しさをにじませていた。
試合後、北田選手は「車いすバスケは自分の居場所」と話していた。年に一度のこの大会でライバルたちに会い、近況を伝え合えることがモチベーションになっている。感染拡大で練習や大会が思うようにできない中、その思いを一層強くしたという。
「一歩社会に出ると、やっぱり、どこか引け目を感じる自分もまだいる。でも、車いすバスケの世界では、障がいがあっても、なくても、みなお互いを理解し、リスペクトしている。何も隠すことなく、一番こうありたいという自分でいられる。それが、このスポーツに集約されていると思います」
大会には、次世代を担う若いプレーヤーたちも参加した。
「ELFIN」(関東ブロック)の増田汐里選手は、18歳の大学1年生。生まれつき二分脊椎症で下半身に障がいがある。この春、車いすバスケを始めたばかり。「もっともっと練習して、パラリンピックに出場したい。パラスポーツの楽しさを伝えたい」と夢を語る。
「九州ドルフィン」(九州ブロック)の江口侑里選手は、競技歴4年、22歳の日本代表選手。170センチの高身長を武器に、シュートを片手で決める。「パラリンピックで金メダルを取るのが一番の目標です。年を重ねても、動けなくなるまで続けたい」と話した。
前出のJWBF常務理事、橘さんは「女性であっても、障がいがあっても、自分が生きたい人生を生きられる。その環境をつくるのが、我々連盟の仕事」と語る。JWBFはこれからも、大会や体験会を通じて車いすバスケの魅力に触れられる場を広げていくという。
橘さんは言う。
「自分が好きなスポーツで自分の人生を豊かにできる。車いすバスケを通して、学び、自信をつけて、その先の人生を輝かせていく。今活躍している選手たちがロールモデルとなって、後に続く人たちにこういう世界、希望もあるよと、夢を見せてあげてほしい」
選手たち、競技を支える人たちと続けてきた大会は、たくさんの人たちに希望をもたらしてきた。年に一度の全国大会は、これからも続いていく。誰もが、自分が生きたい人生を生きられる——そんな未来を目指して。
※撮影時のみマスクを外すご協力を得て撮影を実施しています。