“こんな小さな破片で、世界史が変わりますよ”
トルコ共和国の首都アンカラから南東に約100km。小麦畑のなだらかな丘がどこまでも広がるアナトリア高原の中心部に「カマン・カレホユック遺跡」はある。
午前6時。夜が明けるのとほぼ同時に、発掘調査隊と作業スタッフを乗せた車やバスが到着する。研究者や学生で構成される発掘調査隊と、現地の村から集められた作業スタッフの約40人がそれぞれの持ち場に向かう。
トルコの遺跡の多くは「丘」になっている。文明の交差点となってきたトルコでは、東西南北をさまざまな民族が行き交ってきた。都市が栄えては滅び、その上に新たな都市が再建されてはまた滅ぶ。歴史が積み重なるうちに高さが増していき、この遺跡では約16メートルにも達している。アナトリア考古学研究所によれば、最も古い層は約1万年前にまでさかのぼり、これまでの調査で約50の都市の層が確認されているという。
表土を削るツルハシの音が遺跡中に響きはじめる。集めた土砂をふるいにかける重機の音がけたたましく鳴る。暑さが厳しくなる午後2時まで、みな一心不乱に地面に向かう。そうやって、1万年の歴史の層を1枚1枚はがしていくのだ。
「こんな小さな破片で、世界史が変わりますよ」。調査隊を率いるのが、中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所所長・大村幸弘さん。アナトリアとは、トルコのアジア側地域のことを指す。大村さんはむきだしの地層を背にしながらこの遺跡であった「発見」を解説する。
同研究所は1985年からこの遺跡で発掘を続けている。この3月に発表された製鉄の由来に関する発見は、日本でも新聞の1面を飾る大ニュースとなった。
もともと製鉄は、鉄と軽戦車を武器に世界を支配したといわれるヒッタイト帝国(紀元前1400〜同1200年)が起源で、帝国滅亡とともに世界に広がった、というのが通説だった。ところが、2017年ごろから「1000年以上古い(紀元前2500〜2250年の)層から、(世界最古級の)鉄製品と、製鉄の根拠となる鉄かすが出始めた」。しかも、その組成から原産地を調べると、「ヒッタイト民族が北方から技術をもってきて、アナトリアで生産した可能性が高い」と分かり、新たな説を発表することになったという。
この発表は、大村さん自身の仮説を覆すことでもあった。「カマンでは鉄かすは出ないと考えていた」という。発掘がさらに進めば、より新しい説が生まれる可能性もある。
新しい事実が見つかれば、自分の仮説を否定することもある。だけど、とにかく主張し続けなきゃいけない。自分で調べて、仮説を立て続ける。そこからしか(学問は)何も生まれません
アナトリア考古学研究所は大きな「発見」の実績がいくつもある。それにもかからわず、大村さんは「この遺跡の発掘は、個別テーマの発見を目的とはしていない」と強調する。「発掘とは発見ではない」とすら言う。
重要なのは、考古学の基礎となる「文化編年」を日本がつくること、そこから歴史の理論を導き出すことです
大村さんを突き動かす「文化編年」とはいったい何だろうか。
「文化編年」を読み解くことで、文明の盛衰と「今」が見えてくる
大村さんは「文化編年とは、年表づくり」だと言う。世界史の年代は、新石器時代、銅石器時代、青銅器時代、鉄器時代などその時代の特徴的な文明や文化によって分けられる。その一連の変化の年表を1つの遺跡の表層から底まですべて発掘することでつくるのが文化編年だ。
たとえば、カマン・カレホユック遺跡では、新石器時代からオスマン帝国時代までの1万年のあいだに大きく6つの文化層があり、それをさらにa層、b層などと細かく分類して年表をつくっていく。
文化編年づくりは、19世紀から20世紀半ばに欧米の研究者が中心に行ってきた。それをもとに世界の歴史は語られてきた。だが、「現代の研究成果と矛盾がある」うえ、「日本の研究者は、ずっと欧米の後追いできた」と大村さんは指摘する。
オリジナルの(歴史観を打ち立てる)資料がなかったからです。50年、100年かかっても完璧な資料をつくり、文化編年を編み直していくことが大事です
そのために必要なのが、徹底した1次資料の集積。作業は極めて地道だ。掘り出した遺物は一切捨てず、整理していく。毎年100万点以上が時代ごと、区域ごとに収蔵庫に収められていく。
文化編年から見えてくることもあるという。
ヒッタイト帝国時代も、ローマ時代も、文明の終わりには必ず大火災層があります。他国や異民族から侵略された跡です。その火災層の下、150年くらい前の層から出たものを並べていくと、どういった要素が重なると文明が滅亡に向かうかがわかる。情報、技術の平均化、組織の疲弊…。終わる時は、いつもカオスが広がっていきます
たとえば、ローマ時代。大村さんによれば、ローマ帝国が滅びたのは、「すべての道はローマに通ず」と言われた、まさにその道によって中央の情報が地方に流れ、コントロールできなくなったことが大きいという。
大村さんは続ける。
文明の終わりは、すべて同じパターンをくりかえします。現代文明も、核や情報技術が拡散し、崩壊前のカオスと言えるでしょう。文化編年を読み解くことで、文明の盛衰の背景、「今」という時代も見えてきます。そこから、この先に大きな絵を描いていくことが必要です
地域社会と向き合う考古学のパイオニア
大村さんが発掘調査のかたわら35年間つづけていることがある。毎週土曜、現地スタッフを集めて約2時間の青空教室を開くことだ。
ホワイトボードに図を描きながら、「きみが発掘している場所は、何時代のものかわかる?」「後期鉄器時代はいつ?」——。発掘の目的や、考古学の基礎知識、発掘で使う機器の使い方などを矢継ぎ早に聞いていく。発掘現場もめぐり、1週間で明らかになったこと、不明な部分などを議論する。
従来の発掘現場では、単に労働力として扱われがちな作業スタッフも発掘調査の一員として巻き込む。そのために発掘の意義を繰り返し説明する。地域や現地スタッフの理解なしに、考古学調査は成り立ちえない——。そんな想いがある。
研究をやっていくうえで最も大事なのは、一緒に働いている村の人たち。研究を支えているのは100%彼ら。研究者はそれに乗っかっているだけです。村のみんなは最初、日本人が金を探しに来たとしか思っていなかった。だから、何回でも授業をやって、説明をして。村の子たちを遺跡に連れて来たりとかね。そのうち中から出てくるわけですよ。「発掘をやってみたい」っていう子たちが
大村さんは文化財を保護するうえでも、こうした地域の人々の理解は重要だと語る。
遺跡は彼らが守ってくれるんです。この35年、盗掘は1回もない。中東では遺跡や博物館が略奪に遭うことがあるけれど、ここでは起きないですよ。おそらく、ここでは命がけでみんな守る。この遺跡は自分たちのものだ、という想いが頭の中にある。それが僕は本当の文化財保護だと思う
ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院のヒッタイト学者マーク・ウィーデンさんは、研究所の取り組みを「地域社会と向き合う考古学のパイオニア」と評価する。地域社会と深く関わる考古学の流れは世界的にあり、その取り組みはいくつかある。だが、それらは「たいていカマン・カレホユックよりも後に出てきたもの」だという。
残念ながら、考古学の世界では、研究者が6週間や2ヶ月という短い期間だけ地域にやって来てすぐに帰る、というケースが多い。最悪の場合、考古学者が地域を利用するだけで、地域に貢献や投資をしていないことも多いです。研究所の取り組みは、考古学の未来にとっても大きな意義があります
地域と共に育む“あたたかい考古学”へ
地域との関係を考慮しない”冷たい考古学”から、地域と共に育む”あたたかい考古学”へ——。地域の人たちは、研究所の存在をどのように受け止めているのだろうか。
現地スタッフは、研究所のあるチャウルカン村から採用される。そのリーダーの1人、ズィンヌリ・チョルさんは「大村先生は実の両親より身近な相談相手です。村の人口は2000人弱。毎年100人近く雇用されるので、1家に1人は研究所のお世話になっている」と言う。
毎年参加するベテラン、夏休みを利用してアルバイトに来る大学生や高校生もいる。障がいがあってほかでは働けない人の雇用の受け皿にもなっている。
考古学の専門技能を習得した人もいる。
エルチン・バシュさんは、遺物の修復作業のリーダーとして研究所で働いている。現在、42歳。13歳から発掘作業を手伝うようになり、16歳の時にアメリカの専門家から修復技術を学んだ。「新しい知識を学ぶことにとてもワクワクした」と振り返る。それから30年。バラバラの陶器の破片も見分け、パズルのように組み上げていく。
「研究所が村民の意識にも変化をもたらした」とバシュさんは言う。
わたしたちの父母の世代にとって、遺跡は意味のないものでした。研究所ができて変わったのです。普通の村民が、まるで考古学者のように遺跡の話をするようになりました。別の町の人と話す時、遺跡や発掘、日本の人たちとのやり取りを自慢していますよ
研究所がトルコ社会にもたらしたもの
考古学調査には、時間も、労力も、資金も膨大にかかる。1970年代からトルコで発掘調査に従事してきた大村さんの一番の協力者となったのが、皇族であり、日本のオリエント学の第一人者でもあった三笠宮崇仁親王殿下だったという。
大村さんは振り返る。
文化編年の構想をお伝えした時におっしゃったのが、「やるんだったら、5年、10年ではいけない。やり続けなさい」でした。歴史学者として日本の研究に強い問題意識をお持ちになっていた。「第2次世界大戦に日本が負けた背景は、やはり歴史を知らなかったからだと思う」と
大村さんらの文化編年づくりの挑戦は1985年に始まった。その後、2005年に継続的な学術研究を行うための拠点施設を整備。2010年に調査内容や出土品を展示する「カマン・カレホユック考古学博物館」もオープンした。1993年には憩いの場として日本庭園「三笠宮記念庭園」も造られ、研究所は地域の複合的な文化拠点となってきている。
大村さんは「地域のお年寄りの居場所をつくりたい」とさらなる構想も語る。
(研究所には)村のお父さん、若い人、女性のすべてに働く場所があってしっかり暮らしていけるのではないか、というのが研究所の基本。研究だけじゃなく、みんなが楽しく生きていける場所をつくろうよとずっと思ってきたんです
だから、地域のためになることは何でもやる。”研究者”という枠にとらわれない。大村さんは問いかける。
そういう中から日本人に石を投げてくる人が現れると思いますか?
研究所が立地するクルシェヒル県カマン郡郡長、ムラット・ギルギンさんは、研究所の存在が地域社会にも大きな恩恵をもたらしていると語る。
研究所はこの地域の古代からの歴史を発掘し、将来の世代に伝えるうえで重要な役割を果たしています。庭園や博物館には国内外から年間約10万人が訪れるようになりました。非常に長い年月におよぶトルコと日本の友好関係を示す好例です
文化編年の完成は50〜60年後
午後6時。発掘作業はすでに終わっている。遺跡から2km離れた研究所では、会議室に緊張した面持ちの学生が続々と集まってくる。発掘調査に参加したさまざまな国の大学院生や学生がその日の報告を英語で行う。準備不足は、第一線の研究者から厳しい質問攻めにあう。その中で学生たちは学びを得ていく。
日本からも2週間のフィールドコースに参加する学生が来ていた。フィールドコースは発掘現場の一連の流れを体験するインターンシップだ。慣れない発掘作業や英語での発表に奮闘していた。
中央大学2年生の難波江春凪さんは、「日本史を専攻していて、視野を広げたくて参加しました。いずれ学芸員になって発掘調査をしたい」。国士舘大学3年生の桐山徳久さんは、「大村先生の話を聞いて、自分の信念を貫くことが重要だと学んだ」と語っていた。
大村さんは言う。
(厳しい指摘に、その時は)泣きながら帰って行く学生もいるけど、けっこう戻ってくるんです。「先生、また来たよ」って。それがうれしくてね。ピラミッド型ではない、自由で楽しく研究できる場をつくりたい。そんな場でありたいんですよね
大村さんは、今年73歳。文化編年づくりに35年の歳月を捧げてきた。発掘区は最初の1区から約100区まで広がった。それでも、「最終の一番下の文化層までいくには、あと50〜60年以上はかかる」という。
半分で僕は終わりですよ。あと2代は(引き継いでいくことが)必要です
その作業を引き継ぐのは、男性でも、女性でもよい。日本人でなくてもよい。理念さえ引き継がれれば、研究の火は決してついえない。どんなに炎が小さくなっても——大村さんはそう信じている。
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