理想のウェアに向け、試作、実験、修正……
「では、お願いします」——。合図と共に、実験室に轟音が鳴り響く。2020年2月、筑波大学スポーツ流体工学実験棟。実験室に設置された巨大な送風機が、自転車にまたがるマネキンに向けられている。風圧は時速約60kmで走る時と同じ。ウェアにかかる空気抵抗を測っているという。
自転車トラック競技では「スキンスーツ」と呼ばれるワンピース型のウェアを着る。生地は伸縮性に富み、身体にぴったりと合わせて作る。
「ウェア開発は“積み重ね”です」と、実験・分析担当の神谷将志さんが言う。まず試作品を作り、空気抵抗を計測する風洞実験にかける。選手に着てもらい、感想を聞いて、修正をして、また実験。修正、試着、実験、分析……その繰り返し、積み重ねでウェアは作られる。
今回は、着心地を良くするために素材を変えたことで、性能が落ちていないかを確かめたという。空気抵抗を減らす「空力性能」と、選手にストレスをかけない「着心地」を両立することが重要だからだ。
神谷さんはモニターに映された数値を、開発を支援する研究者と確かめ、「悪くない数字でした」と満足そうだ。東京五輪に向けて、理想のウェアは着実に仕上がりつつある。
ロンドン五輪でウェアの開発競争が加速
「近年、スポーツにおけるマテリアル(道具)の重要性が増しています」
スポーツと空気抵抗に詳しい筑波大学教授の浅井武さんは言う。競泳水着、ランニングシューズ……。トップレベルの大会で、画期的な道具の存在が話題になることが増えた。
「かつては金メダルと銀メダルの選手の間には大きな能力差がありました。今は競技のレベルが上がり、トップ選手同士の差はわずかです。0.01秒の差で順位が決まることもある。ライバルたちに少しでも差をつけるために、道具の重要性が相対的に増しているのです」
自転車トラック競技では、特にその傾向が強まっているという。きっかけは2012年ロンドン五輪の英国チーム。国を挙げて莫大な資金と労力をかけ、実際に成果を出した。
英国チームはこの大会で、自転車トラック10種目のうち、ケイリン女子、男子を含む7種目の金メダルに加え、銀、銅メダルも一つずつ獲得した。その成績は各国チームにショックを与え、空気抵抗に影響を与えるウェアの性能に注目が集まったという。
そして、東京五輪に向け、「0.01秒を削れるウェア」の開発を託されたのが、スピードスケート、競泳など数々のスポーツウェア開発で実績のあるデサントだ。
手探りのウェア開発がスタート
デサントは、2017年から自転車トラック・マウンテンバイク・BMXの日本選手団に競技ウェアを供給している。次の東京五輪までに世界の舞台で戦えるウェアを作る——。これが開発チームに課せられた任務だ。
開発チームに選ばれたのは、デサントとデサントジャパンに所属する4人。神谷さんに加え、選手団との窓口を務める井上大平さん、服の型を作るパターン設計者の田中悌二さん、そして、生産管理と総括を引き受ける齋藤孝太さん。
デサントにとって、最先端の研究・開発を伴う自転車競技用スキンスーツの供給は初めてのことで、当然、4人にも経験がない。開発は手探りで始まったという。
選手一人ひとりの身体に「完璧に」合わせる
細部の調整を伴うウェア開発で鍵を握るのが、パターン(=型)作りだ。担当は田中さん。この道39年。スピードスケートやアルペンスキーの滑降などの競技で、日本をはじめ世界各国代表のウェアを作ってきた。五輪のメダル獲得に関わった経験も多い。
さまざまな競技で得た知見や経験が、自転車競技のウェア開発にも生きた。
田中さんによれば、自転車競技はスピードスケートなどと比べて素材の規制が厳しく、特殊な素材が使えない。その分、生地の組み合わせや縫い目が重要になるという。
激しく動かす下半身には伸縮性に富んだ素材を、大きな風圧を受け続ける上半身には空気抵抗の小さな素材をあてた。国内外から生地を取り寄せ、さまざまな組み合わせを試した。
何よりも大事なのは、選手一人ひとりの身体に完璧に合わせることだ。
少しでもずれがあると、表面にシワが生まれてしまう。高速で駆け抜ける自転車競技では、ウェアにある小さな凹凸が空気にぶつかり、抵抗を生む。その抵抗が0.01秒の遅れにつながってしまうかもしれない。だから、縫い目の位置や、着た時にできるシワが少ないことが重要で、選手の体型や競技中の姿勢、癖などを事細かに把握する必要があるという。
ウェアの着心地は好みの要素が強いという。大きな身体でもSサイズを好む選手がいれば、緩めに着たい人もいる。襟元が大きく開いていたほうがいい選手、半袖を好む選手などさまざま。しかも、選手の体型は刻々と変わる。選手の情報を得ながら、微調整を重ねていく。
「競技中、ちょっとした違和感が選手の集中力を奪ってしまいます。選手の要望、彼らが必要としていることに応えるのが僕らの役目。試作品を作って、その都度選手の感想を聞いていく。その積み重ねが信頼につながると思っています」
打ちのめされた1年目
ウェア開発は最初から順調だったわけではない。
「正直に言えば、最初の年は選手やコーチたちが満足できる、身体に合ったウェアを作ることができませんでした」と、開発チームで選手団との窓口役を務める井上大平さんが2017年、1年目の夏を振り返る。
「選手側の細かな情報を得られないまま、最初のウェアを渡す日を迎えました。選手やコーチたちには不評で、『何しに来たんだ』という言葉が出る寸前のような厳しい視線を浴びた。『打ちのめされた』という感覚です」
選手やコーチたちの信頼を得るために、何度も何度も試作を重ねた。好転し始めたのは、2年目の夏頃だという。
「夏のアジア競技大会後、頂いてきた意見をもとに大幅に作り変えました。試着してもらった時、『これならそのままレースに出られる』という反応をもらって、そこから関係性がぐっと良くなって、具体的な修正意見をもらえるようになりました」
最後は「信頼関係」
「自分たちの特色は、職人としてのクラフトマンシップにある」と井上さんは言う。
井上さんによれば、3Dスキャナだけで体型のデータを取り、実験結果の数値だけでウェアを作ることを目指すチームや研究者もいるという。もちろん、デサントの開発チームも最新の技術を駆使はする。それでも、最後は「ローテク」で決まるという。
「もちろん科学的に速いウェアは作ります。でも、最後は人間同士のやり取りで決まる。ウェア作りには“正しい情報”が必要です。それを持っているのは選手たちで、彼らの感覚を言語化してもらわなければならない。そのためには信頼関係が必要です。試作を重ねながら会話の回数が増え、少しずつ関係が築けたと思います」
「今のウェアは、(正面に受けた)風が背中へときれいに流れていく」と日本代表候補の脇本雄太さんは言う。
脇本さんは男子エリートケイリン個人の世界ランキング4位(2020年3月1日現在)。2020年2月の世界選手権ではケイリンで2位の成績を収め、銀メダル。ケイリンとスプリントでの東京五輪出場が確実視されており、金メダル獲得も期待されている。
開発チームのことはやりとりを重ねるうちに、信頼するようになっていったという。
「ある時からフィッティングが一気によくなり、驚きました。競技中はウェアのちょっとした違和感で気が散ってしまいますが、その違和感を誰かに伝えるのが難しい。でも、(開発チームには)自分の感覚を分かってもらえている気がします」
日本選手団との信頼関係が高まるにつれ、結果も付いてきた。
2018-2019シーズンのトラックワールドカップでは、第1戦のケイリンで脇本選手が金メダルに輝いたのを皮切りに、計7個のメダルを獲得した。2019年3月の世界選手権のケイリンでは、新田祐大選手が準優勝。2019-2020シーズンのトラックワールドカップの成果は、金メダル四つを含むメダル11個。そして、2020年の世界選手権では、脇本選手の銀メダルを含む二つのメダルを獲得している。
国際大会で好成績が続いたことから、東京五輪では、開催国枠のない自転車トラック競技で、短距離種目では男子ケイリン・スプリントで2枠を獲得。女子ケイリン・スプリントでは1枠を確保した。中長距離も含むと計6枠を数える。
「選手たちに励まされた」と井上さんは話す。
「ウェア開発は、一般的には選手を支えるイメージがある仕事ですよね。実際にそうであるべきだけれど、僕たちがまだまだだった時、選手がいくつもメダルを取ってくれた。奮起しましたね。これに応えないと、僕たちがいる意味ないよね、と」
0.01秒でも早く、ゴールラインを越えられるように
東京五輪に向け、開幕のギリギリまで「0.01秒」を縮めるための改善は続いている。
開発チームを取りまとめる齋藤孝太さんは言う。
「細かい地道な作業を続けて、なんとかここまで来れました。残りの期間、最後まで改善を続けたい。選手の皆さんがそれぞれ努力した結果を、できるだけ邪魔しないウェアを突き詰めたいと思っています」
4人には夢がある。それは、東京五輪の金メダルを手にした選手と記念写真を撮ることだ。
ウェアの開発チームは、選手やコーチ陣のいる競技エリアには入れない。けれども、4人で作ったウェアは、誰よりも選手に近いところで彼らの背中を押している。“向かい風”を受け流す。0.01秒でも早く、ゴールラインを越えられるように。
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