“ちょっと”が大きい。生きる勇気をもらえる場所
2020年3月、東京都港区にあるアピアランス・サポート東京の事務所を兼ねた、美容室「エステインターナショナル」に現れた明子さんは、白いブラウスを着た、ショートヘアがよく似合う女性だった。前年末からここに通うようになり、美容師で、アピアランス・サポート東京理事の村橋紀有子さんとはすっかり顔馴染みになった。村橋さんと楽しげに話すその姿を見ただけでは、彼女が今も闘病中だとは分からない。
「まさか、と思いました」と、明子さんは二度目のがんが分かった時を振り返る。
「ショックでした。でも、もっと娘たちの成長を見たい。医師からは抗がん剤治療を勧められました。そのほうが長生きする確率が高いって」
髪は、抗がん剤の投薬から2週間で抜け始めた。「髪をとかすとザバザバ抜ける。4、5日間抜けると一度止まり、次の薬を打った2週間後にまた(脱毛が)始まる。これが何度か続きます」
「がんだと知ると、患者の頭は“治療”でいっぱいになる」と明子さんは言う。「バタバタと治療が始まって、仕事や家事はそのまま続く。自分の爪や髪型に気を遣う余裕はありません。余裕がないこと自体に、気づけないくらいです」
長女の卒業式に向け、明子さんはショートのウィッグを新調した。最初に買ったボブのウィッグよりも、フォーマルな場に合うように。「アピアランス支援で何が変わりましたか?」と聞くと、明るい表情を崩さないまま、「病気への不安は消えません。おしゃれをして、楽になるのはちょっとだけ」と答え、「でも、」と続ける。
「病気で頭がいっぱいの時の、その“ちょっと”が大きいんです」
新しいウィッグは、紀有子さんのカットと調整で、自分の本当の髪のようになった。変わるのは“外見”だけではない。施術を受けると、心にちょっとだけゆとりができる。「かわいいね」「似合ってるね」——。何気ない一言で、またちょっと元気が出る。
「きっと心の奥底で、ウィッグがばれちゃうかなとか、変に見えてないかな、周りの人を驚かせてないかなとか思ってるんです。でも、髪とか爪をきれいにしてもらうだけで、気持ちが晴れていく。明日は何かしようとか、散歩に行ってみよう、ちょっとこのまま買い物に行ってみようとか。私にとってこの場所は、美しくなるためというより、生きるための勇気をもらえる場所なんです」
がん治療は「入院」から「通院」へ
アピアランス支援とは、医学、美容、カウンセリングによって、外見の変化によって起こるがん患者の苦痛をやわらげること。「近年、患者と社会をつなぐ上で、アピアランス支援の重要性が増しています」と話すのは、東京慈恵会医科大学附属病院患者支援・医療連携センターのセンター長の石川智久さん。
背景には医療の進歩があるという。
「がん患者はずっと入院していて、毛糸の帽子を被って、嘔吐して、というイメージがありませんか?」と石川さんは問い掛ける。
「今は全く違います。がんは早期で見つかれば、余命数カ月の病気ではなくなりました。薬も劇的に進歩して、吐いたり、下痢をしたり、という副作用もかなり減った。入院はほとんどせず、これまでの生活を続けながら通院で治すのが一般的。がんで生活を諦める時代ではなくなってきています」
厚生労働省「患者調査の概況」によれば、がん治療のための平均入院期間(35~64歳)は12日間(2017年)。2010年時点の「国民生活基礎調査」を元にした厚労省の推計では、仕事を持ちながら通院治療をしている人は、全国で32万5千人に上る。
治療が生活の一部となる中で、副作用のうち、吐き気や味覚の変化よりも脱毛に苦痛を感じる人が多いという調査もあるほどだ。石川さんは語る。「医療の専門家だけでは限界がある。美容のプロとも連携していく必要が出てきているのです」
医療と美容をつなぐ支援
東京都港区で、2014年からアピアランス支援を続けてきたのがアピアランス・サポート東京だ。村橋さんはこう話す。
「患者さんは抗がん剤治療が始まるだけでも大変なのに、2週間後に髪が抜けてしまうと聞き、どうしたらいい、どこに行けば、と慌てます。しかも病院にあるパンフレットで調べると、ウイッグは数十万円という高価なものばかり。これから治療に入る方には大きな負担です。でも、ウィッグの質も上がっていて、高いものでなくても、自分の頭に合っていれば、カットで自然に見せられます」
アピアランス・サポート東京では、患者からの問い合わせや病院に設置されたがん相談室などで、アピアランスに関する相談を受けている。
美容院にはいくつかのメーカーのウィッグが用意されている。好みのウィッグを選んだら、その場で美容師がカットなどをして、本人の頭になじませる。男性の利用者も少なくない。爪や肌のケアをする美容の専門家もいて、必要に応じて相談もできるという。
治療に向かう気持ちが前向きに
アピアランス支援の特徴の一つは、医療機関との連携だ。東京慈恵会医科大学附属病院がん相談支援センターの看護師、紙屋友紀さんは、アピアランス支援によって、病気への向き合い方が変わる人を何人も見てきたという。「ある女性はがんがかなり進行していて、腹水もたまって、酸素吸入もしていました。その状況で抗がん剤治療となり、『私、こんな状況なのに髪も抜けるの?』と涙を流していたんです」
その女性は、アピアランス・サポート東京と出会って、自分に合ったウィッグを手に入れたことで大きく変わったという。
「目に見えて明るくなって、『これならかつらだって分からない。大丈夫ね』って。見る見るうちに治療に向かう意志が固まっていきました」
同病院の医師、澤田亮一さんによれば、抗がん剤で治る見込みがあっても、副作用で外見の「自分らしさ」を失うことに強い抵抗を示す人が多いという。治療の強制はできない。医師として、悩むことも多いという。
「がん治療は、ハードルを越えていくように進みます。抗がん剤をやってみる。副作用ってこんな感じなんだ、見た目は変わったけど、こうすれば大丈夫。外に出てみた、友達と食事に行けた……。その人らしさを支えて、ハードルを越えていければ、それだけ治療も進み、体調もよくなっていく。アピアランス支援への理解がもっと広がってほしいです」
「美容師としてできることがある」
アピアランス・サポート東京が立ち上がったきっかけは、紀有子さんの夫で美容室を経営する哲矢さんが、港区のがん支援事業の計画について耳にしたことだった。当初の支援項目に、アピアランス支援が入っていないことに気づいたのだという。
「美容師として自分たちにできることがあるのではないか、と考えました。治療をしながら日常生活を過ごす人が増えている中で、アピアランスのケアが治療生活の質を高めます、と話したら、港区の方が理解してくれた。そして、医療従事者も交えた支援事業が始まりました」
こうして2014年、二人で事業を始め、2016年には港区と連携協定を締結。その翌年、事業をさらに広げていくために法人化した。
アピアランス・サポート東京では代表理事を務める哲矢さんは、事業を始めてみることで、アピアランス支援の意義に気づかされたという。
「最初は、緊張していたり、硬い表情だったりした方が、お話をしていくうちに、どんどん笑顔が増えてきて、最後にはその人本来の笑顔になっていく。これがやっぱり、一番うれしいです」
「自分らしくありたい」を支えていく
アピアランス支援への理解は、少しずつ広がりつつある。いまはまだ小さな活動だが、「もっと多くの方にこの活動を届けたい」と村橋夫妻は言う。アピアランス・サポート東京として、医療の知識を持つ美容師の育成や、看護師らへの情報提供を積極的に進めているという。
二人が大事にしてきたのは、誰もが持つ「自分らしくありたい」という気持ちだ。治療に向き合う人たちは、何気ない一言に傷つくことが多いという。例えば、「命が大事なんだから、おしゃれは我慢しなさい」という言葉。紀有子さんは言う。
「見た目が自分らしくないと、『今の自分は自分じゃない』という思いになりがちです。でも、治療中の生活もその方の大切な時間。お気に入りのウィッグが、頑張る自分を支える『自分の一部』になって、治療中の時間も肯定できるようになるといいなと思っています」
がんは珍しい病気でも、不治の病でもなくなりつつある。それでも、一人一人にはやはり大きな出来事で、生活も外見も大きく変わる。不安な気持ちに寄り添って、その人らしさを支えていく。美容のプロにしかできないことがある。それがアピアランス・サポートなのだという。
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